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2018/03/30

【歩き旅】大山街道 Day6 その② 〜国分〜



伊勢山大神宮へ立ち寄る。そのためにはこの錆びた鉄階段を上っていく必要がある。


階段の上はなかなかの静けさ。大神宮とは名ばかりのこじんまりとした祠がある。脇にある由緒によると、かなり古い時代に伊勢神宮をここに勧請してきたことから一帯を「伊勢山」と呼ぶようになったとのこと。


街道筋である県道40号に戻ると路傍に小さな祠と地蔵がある。地蔵の由緒はよく解らなかったが、道を挟んで向かい側には「重田酒店」がある。重田といえば前回の投稿で石橋建設に尽力した重田七三郎がいるが、この一帯は広く重田家の敷地で七三郎の生家は地蔵の裏側、現在駐車場になっている場所だったようだ。


県道407号こと藤沢街道との交点は「国分の辻」と呼ばれる。かつてはこのあたりに高札場があり、国分宿の中心地であった。消防団の敷地の一角に石仏がまとめられている。寛政年間に建てられた庚申塔には「東江戸つる間 南藤沢かま倉 西大山あつ木 北八王子ほしのやと」刻まれているという。


その先の開けた土地が旧相模国国分寺跡。
741年(天平13年)、聖武天皇が発令した「国分寺建立の詔(みことのり)」によって、各国に国分僧寺と国分尼寺が一つずつ設置された。聖武天皇といえば奈良の大仏を作らせた人物として有名であるが、その大仏造成にあたって仏教を全国に広めることがこの詔の目的であった。しかし思いの外仏教は広まらず、743年(天平15年)には大仏造立の詔を発令、752年(天平勝宝4年)に大仏の開眼法要が行われた。


国分寺は国府に設置されるのが通常であった。相模国の国府は現在の平塚の辺りとされていたので、この海老名の地に国分寺が設置されるのは例外的であった。関東の寺院建築に深く携わった壬生氏が高座郡を根拠地としていたという説もある。
個人的には、相模国の地名で日本書紀に出てくるのが最も早かったのが「高座郡」こともあり、そもそもの国府がこの辺りにあったのではないかと思ってしまうが何とも言えない。


街道に復帰して少し歩くと堂々たる姿の巨木が目に飛び込んでくる。海老名の大ケヤキとして親しまれているこの木は、船つなぎ用の杭として打った木が成長したものとされている。
前回のエントリーと紹介した今はなき「逆川」か、逆川から南北に伸びていた「根堀」と呼ばれる水路を行き来するための船を留めて置いたのだろうか。


大ケヤキがある角を曲がって現在の国分寺へ立ち寄る。
平安時代以降、国分寺は度重なる火災・地震に見舞われ、鎌倉時代には再興するも戦国時代には戦火で消失する。残された薬師堂を移動したものが、現在の国分寺の始まりとされている。本尊の薬師如来は行基の作と伝えられているが、室町時代の作との調査結果が報告されている。


境内には「右大山道 左江戸道?」と彫られた道標がある。かつては大山街道沿いにあったのだろうか。上には地蔵座像が鎮座していたようだが、破損している。


寺院でよく見かける六地蔵だが、ここにあるのは三面に2体ずつが刻まれたもの。


こちらの梵鐘は物部国光による正応5年(1292年)の作で国指定重要文化財。物部国光は鎌倉の円覚寺や金沢の妙正寺の梵鐘も手掛けた人物。梵鐘には源頼季(河内源氏の祖である源頼信の三男)が国分尼寺に寄進した旨の銘が刻まれているという。


街道に戻り、国分坂下の交差点で道祖神を発見。比較的新しい書体のようにも見える。海老名でも道祖神信仰は盛んなようだ。


海老名駅前の海老名中央公園には七重塔の復元オブジェがそびえ立っていた。平成4年(1992年)に海老名市市制20年を記念して、相模国分寺にあったとされる七重塔を三分の一サイズにして建てたものである。

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